先日、ネット記事で母校の名前を見た。
「ものすごい名文」「胸が熱くなる」有名進学校の卒業生のスピーチに「とんでもない18歳」と絶賛の声【全文掲載】
卒業生の答辞の素晴らしさを称える記事だ。
全文熟読した。最高だった。
文章から桐朋高校がこれでもかと香ってくる。いや、男子校の汗臭さ泥臭さを考えると、臭っているというべきか。いずれにしても、私が在籍した時から校風が変わっていないことが文章の端々から感じられ、嬉しかった。
「馬鹿たれ」の部分なんて、最高だ。私も考え方の根っこに「真面目になりたくない」と思っている節がある。この考えの由来は自分でもよく分かってなかったが、母校の校風にあったのだろう。
文章にもあるように、「自由」や「馬鹿さ」(馬鹿は馬鹿でも、愛されるようなもの)がキーワードの学校だ。
ただ、当時からそれらを感じていたわけではない。他の学校を知らない以上、目の前の学生然とした「授業だるいな」「部活だるいな」のような条件反射的感情がほぼすべてであり、そもそも「自由」について考えるきっかけすらないのが実際のところだった。
これらを理解しだすのは卒業後である。明確に感じるわけではないが、社会という広い世界と接する中でなんとなく「母校はいい環境だったのかもしれない」と感じるような気がする。
このような曖昧な感覚が、今回の土田さんの答辞を読んで確信となった。「いや良い学校だったわ」と。卒業生に対して、母校を誇らしく思わせてくれる文章である。
読んでない方にはぜひご一読いただきたい。
そして家族や知り合いに桐朋高校の素晴らしさを布教してほしい。
p.s.答辞内のレトリックと桐朋の授業
言うまでもなく素晴らしい答辞である。
ここに答辞の文章への感想を書くのは野暮だが、読んでてひとつ考えついた内容を書きたい。
桐朋の英語の授業が効いている。そう感じた。
桐朋の英語の授業では、たしか高2だったと思うがスティーブ・ジョブズとキング牧師のスピーチを勉強する。スピーチの一部分は暗記させられた記憶もある。ここは今も変わってないのだろう。
「僕ら以外にだれがいるか」の連鎖の部分など、これら名スピーチのエッセンスを感じた。さらにちょっとしたジョークの織り込みや、そこから核となる本気の話へ移行していく流れなどもそうだ。土田さんの答辞は当然文章でしか読んでないが、おそらく話し方も素晴らしかったのだろうと想像する。
私も文章を書くときや何か話す場があるときは、半分無意識にこれらの工夫を実践していた。
意識して実践していたというよりは、「こうするとなんか良い感じになる。なによりこういうのが自分で好き」のような自己理解があった。
あまり明確に習ったような記憶もなく、この辺りの作文にはちょっと自信があったので、「自分はちょっと作文の才能をもって生まれてきたのかもしれない」という自惚れすらあった。が、なんのことはない。ただ英語の授業で、僕らにはこれら歴史に残る名スピーチがすりこまれていたのだ。(答辞を読んでくれた会社の友達に、「読んでて自然とカエルさんを思い出した。校風がそうなんだろうね」と言ってもらえた。こんなに嬉しいことばはない。)
少し飛躍すると、学校教育の目指すところはここなのかなと思った。振り返って、ありがたがる。だいたいの内容について、当時は価値に気づけない。振り返って気づくと、ありがたみも増すというものだ。
何かを教えるとき、その場で役立たせようとしすぎる傾向がある。目指すところはそうではなく、今つまらなかったとしても、思い出して良く感じられるものを伝えたい。