節約と健康のため、スーパーにて1ユーロの野菜280gパックを買った。
数多の旅行で危機察知能力が備わっているので、買う前の時点で「箸がねえな」ということに気付いていた。素人は買ってから気づく。
が、スーパー内を探しても箸のようなものは売ってなかった。結局、まぁでも何とかなるだろ、と突然素人も玄人もへったくれもないテキトーな意思決定で購入した。
宿に戻ったのは23時頃である。
箸対策として最も有効なのは「ホテルのオーナーに頼んで借りる」だが、もう疲れていて話すのも億劫だったし、もうベッドだ。
素手で食おう。
そう決意した。
決意を後押しした過去の記憶が一つある。
これまたたしか、沢木耕太郎さんの深夜特急だったと思う。インドの回で、「インド人が手でカレーを食べていて、その器用さには美しさすら覚えた」という旨の記載があった。
インド旅行中も何となくそのことを覚えていたが、汚いインドなんかでそんなことしたら確実にお腹を壊す。微塵もやろうと考えなかった。
しかしここはウィーンである。トイレの水道水もアルプスの水の、あの美しいウィーンである。しかもこちらには日本のDAISOで買ったアルコールウェットティッシュもある。拭きまくって食べて、アルプスの水と石鹸で手を洗いまくれば無問題だと思い、素手サラダを決意した。
しっかりアルコールウェットティッシュで手を拭いた。いざ、サラダ。
このサラダ、しかもドレッシングも付いている。「ここまできたらどこまでも」という覚悟なので迷いなくサラダに全てのドレッシングをかけ、右手で豪快にかき混ぜた。(左手はインドで不浄とされるので使わない)
手のかき混ぜやすさは異常である。こんなに手がネチョネチョものにまとわりつかれるのは、ハンバーグを作る時以外にない。
さて、サラダを手で掬ってみる。ここでも手の有用性に気づく。非常に掬いやすい。コーンなど箸では取りにくいものが、手だと余裕だ。
そしてついにサラダを素手で食べた。普通の味だ。
ここでまた沢木耕太郎さんの一節を思い出す。カレーの回ではないが、トイレで手を使ってケツを拭いた時に「また一つ自由になれた気がした」という記載だ。少し状況は違うが、サラダを素手で食べたこの瞬間も、同じ気持ちになれた。
一つ素手ご飯の豆知識。混ぜやすい、取りやすい、と意外に有用な素手だが、一つ欠点がある。
口の形にフィットしていないことだ。
慣れれば問題ないのかもしれないが、手ではたくさん掬えていても、口がうまく手から野菜を取ることができないと感じた。要は、「野菜を掬う用の形状」と、「口に合う形状」が異なり、そのバランスが難しいということだろう。スプーンや箸などは後者に特化した器具だということがこんなこと経験から分かった。この問題を解決するには、手に口が生えるしかないと、どうでもいいことを妄想した。
無事完食。不足しがちな野菜も取れて満足だ。
食べた後の副産物として、強くもなれた気がした。ずっとドーミトリー宿泊しているので、何となく周りの人に気後れしてしまうことが最初はあった。しかし、これも「自分」というものを強く持つと耐えられる。その姿こそ見せた訳ではないが、「自分はサラダを素手で食った人間だぞ」という認識はなぜか自分を強く保ってくれる。これも豆知識だ。
計画通り、水と石鹸で入念に手を洗い、さらに念を入れて、アルコールウェットティッシュで手を拭いた。が、普通に匂いが残ってちょっと落ち込んでいる。早く匂いが抜けて欲しい。