北欧ラストの夜は部屋ご飯だ。北欧でレストランなどもっての外。基本はスーパー飯なのだ。ベッドは狭いので共有スペースで頂く。最初はおどおどしていた共有スペースも、根拠のない自信だが今じゃ堂々とできるようになった。
オスロはサーモン。何回目か分からないが今回もサーモン。しかし趣向を変えて寿司を買ってみた。スーパーに売っていたのだ。
サーモン部分はさすが。美味しかった。が、米が改善の余地あり。園児が泥団子を作る時のような密度が込められていた。お寿司を握る時は撫でるように握ってほしい。
そして北欧で出会った日本人旅人から譲ってもらった日清のシーフードヌードル。青色が好き!という理由で最初に好きになった、思い出のあるカップ麺だ。気づいたら無くなっているほど夢中で食べた。泣くほど美味しかった。
ビールも少々。
ほろ酔いだ。北欧にとらわれず全般的なことを自由に書きたい。
ふとメモを振り返ってみている。
実はこの旅はこの日記以外にも、スマホのメモアプリで思ったことや印象的な出来事、言葉をメモったりしている。この頻度は我ながら病的だと思う。iPhoneのスクリーンタイムの実績データも下記の通りだ。
もっというとiPadのホワイトボードでも手書きでまた別の視点からメモしているので、実際のメモ量は計り知れない。まあとにかくメモが大大大好きなのだ。
さっきも言ったが、今メモを振り返っている。
楽しい。とっても楽しい。これだからメモはやめられないと改めて思った。
一番良いのは「思い出、記憶が強化されること」だ。読んでいると、その時の「経験」と、こちらがもっと大事なのだが「気持ち」がそれなりの再現度で再生できる。
もちろん写真でも記憶は留められるし、再生できる。ただ写真と文字は異なるメディアなので、思い起こされる“感じ”が少し異なる。なんというか、文字の方が余白をもった少し自由な記憶が想起される。そこが好きだ。
理想を言うと、全ての景色、音、匂い、触感、味、感情を、全ての時間勝手に記録し、自由に再生できるデバイスができて欲しい。
なぜメモが楽しいのだろう。それはメモには楽しい!と思ったことが主に書かれているので、読むとまた楽しい気持ちになれるのでお得と感じられるからだと思っている。ケチの影響はここまで根を張っている。一回の経験を何回もしゃぶり尽くしたい、この思いが病的なメモにつながっているのだ。
そして、メモは人に共有できる。この日記も多くはメモから始まっているし、旅の間で人に話すこともできるし、旅の後も話せる。ここはやはり「人と話すのが大好き」ということに繋がっている。楽しく友達とおしゃべりするのが至福だ。
余談だが、私と話すときは気をつけて欲しい。楽しい発言や素敵な感想は、実はこっそりメモされているのだ。
すぐその場でこっそりメモる場合もあれば、「すぐその場でこっそりメモる姿を見られるのは恥ずかしいな」と思って少し待ってからメモることもある。後者の場合は、しばらく脳の一部を「〇〇っていう面白発言後でメモするぞ」と記憶を反芻することに使っているので、人へのレスポンスが心ここに在らずになることが特徴だ。
どうでもいい注意喚起でした。