ゴッホが普通に好きだ。というか1番好きだ。ちなみに永井も別に嫌いじゃない。ラッセンは特段好きじゃない。
ゴッホを好きになったのは、数年前に上野でやっていたゴッホ展で『ひまわり』を見てからだ。
『ひまわり』は5作ほどあるが、そのうちで”最も黄色い”ひまわりが来日していた。
今、海外の美術館を巡っていて思ったのだが、日本の展覧会は照明や見せ方が巧みだと思う。海外は「わ、いきなりこれ来るの?心の準備がまだ…」となることが多い。一方で日本。日本で見たそのひまわりは、展覧会の終盤に、最もその黄色が映えるような照明、壁の色、質感を伴って展示されていた、気がする。
その日、「黄色」を好きになった。20歳を過ぎて好きな色が増えてしまうくらい、そのひまわりは黄色くて、鮮烈な印象を残してくれた。
そんな記憶をゴッホの『ひまわり』に持っている。
現在、アムステルダム。ここにはゴッホ美術館がある。今日の最大の、いやオランダ唯一最大の目的はここだった。このゴッホ美術館に、数年前日本で見た最も黄色いひまわりが収蔵されているので、それを見るのだ。
2週間前に見たのに既に公式サイトの予約が一杯でちょっと高額なツアーを申し込んだり、ツアー集合場所が分からないなど細かい苦難があったが、何とか無事入場できた。
ひまわりとは展示の中盤、海外美術館の例に漏れず唐突に、再会した。
相変わらず黄色かった。色んな色の黄色。色んな方向を向く花。重たげな質感。
解説の中に「they are dying」という言葉を聞き取った。そうだったのか。あまりに生命力溢れる黄色だったのでその印象がなかったが、確かに花の形自体には元気がなく、枯れかかっていたことに気づいた。
何回も聞き直してせっせとメモった音声ガイドの解説を引用しよう。
「ゴッホは花びらが散って枯れ、葉が尖って、タネが弾けたひまわりに、独特の美を見いだました。彼は、衰え、少々荒れてやつれたものを好みました。それこそが本物の人生のようだったからです。」
枯淡の境地、という言葉がある。将棋の羽生善治さんが使っていた。それを連想した。
人間も老いる。老いた時に、老いにしかない良さが生まれるということ。
聞けば聞くような言葉に過ぎないが、『ひまわり』を見てそこに思い至れたことには私個人への独特の意味がある。アムステルダムまで見にきて良かった。