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【8/30①】自由と冒険

旅行
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目をつけていたカフェに向かうため、朝8時にバス停を目指した。

 

まだ人通りは少なく、静か。

旅の間に、ふと自分がここにいること自体に不思議を感じることがある。この時も、「そうか、俺は今1人でバルセロナにいるのか」という強い自覚を感じた。

この自覚、最近はかなりを潜めていた。旅の序盤はその姿を頻繁に見せていたが、旅慣れが進むにつれてどうしても当たり前になってくる。

「俺は今、1人でバルセロナにいる」。

この時に連想して感じるのは途轍もない「自由」だ。

朝のテンションに任せてまたもや自由に妄想を広げたい。これまた取り止めがないと思うが許して欲しい。

この「1人でバルセロナにいる」という感覚は、もしかしたら普通の旅行では感じにくいのかもしれないと考えた。

つまりこれは普通の旅行ではない。そうだ。普通の旅行の気持ちとは明らかに違う角度で臨んでいる。

これは、冒険の類だ。アドベンチャー、エクスプロア。

大袈裟だし、本職の冒険家からは「都市ばっか行って調子乗ったこと言ってんじゃねえぞ」と言われるだろう。ただ、極めて小規模とはいえ、方向性はそっちだということは、何事にも一歩控えめに言いがちな私でも声を大にして言う。今回の旅は冒険だ。

冒険では自由を感じる。

冒険家が冒険に出る理由はこれなのかもしれない。

自然と惹かれていたのか、冒険家の本は何冊か読んでいた。植村直己さん、角幡唯介さん、星野道夫さん。思い立って過去の読書メモを振り返ってみた。スプシは便利だ。

改めて思ったのは、人は「出会ったもの」でできている。この場合は本だが、やはり彼らが思ってきたのと同じようなことを、自然と思うようになってきていると気付いた。

よく言えば憧れに近づけている。悪く言えば囚われている。愛染の「憧れは理解から最も遠い感情だよ」という金言が思い起こされる。よいバランスで生きていきたい。

唐突だが、これらの本の好きないくつかの一節を共有するだけでこの中途半端な日記を終えたい。

 

〈角幡唯介さん『極夜行』〉

植村直己冒険賞「冒険とは、周到に用意された計画に基づき、不撓不屈の精神によって未知の世界を切り拓くとともに、人々に夢と希望そして勇気を与えてくれた創造的な行動」

旅は私にとって冒険でもある。冒険である以上、命の危険があるし、また勝負を懸けるにはそこに何か新しさがなければならないので、そう毎年のようにできるわけではない。しかし何年かに一度、そういうことをやらないと私は自分が腐ってしまう気がする。

冒険とは帰還してこそ意味のある挑戦となる。

私は自分の行為に崇高さを持たせたくなかったし、新興宗教の教祖になろうとしていたわけでもなかった。そこで太田のキャバクラの話などを突然挿入し、俗っぽくすることで全体のバランスを取ることにしたのだった。

 

〈植村直己さん『青春を山に賭けて』より〉

私にとって、過去の出来事は、まったく心の宝であった

こうして五大陸の最高峰を自分の足で踏み、さらにアルプスの中で特に難しい冬期の北壁の登攀に成功した今、私の夢は夢を呼び起こし、無限に広がる。過去のできごとに満足して、それに浸ることは現在の私にはできない。困難の末にやりぬいたひとつ、ひとつは、確かに、ついきのうのできごとのように忘れることのできない思い出であり、私の生涯の糧である。しかし、今までやってきたすべてを土台にして、さらに新しいことをやってみたいのだ。若い時代は二度とやってこない。現在、私は29歳、思考の行動が一致して動くのはここ1、2年だろう。経験は技術である。今が私にとって、一番脂がのり、自分で何かができる時期である。

人のやった後をやるのは意味がない。それも人のためにではなく、自分のためにやるのだ。

結局、というよりも、最初からわかっていたことかもしらないが、山は他人のために登るものではないのだと思う。誤解されても仕方がないけど、山は自分のために登るものだと思う。誰からも左右されない、自分の意志一つで行動できる単独行であれば、それが人のためではなく自分のためであればあるだけ、全てが自分に返ってくる。喜びも、そして危険も。

「探検家になるために必要な資質はなんですか」と聞いた。植村はわずかの間考えた後、「臆病者であることです」と答えてくれた。

私がこの後、強く単独遠征に惹かれたのはまさにそのためだった。どんな小さな登山でも、自分で計画し、準備し、一人で行動する。これこそ本当に満足のいく登山ではないかと思ったのだ。

〈星野道夫さん『旅をする木』より〉

人と出会い、その人間を好きになればなるほど、風景は広がりと深さを持てきます。やはり世界は無限の広がりを内包していると思いたいものです。

”若い時代にはアラスカへ行くな。人生の最後に出かけなさい”と言ったそうです。つまり、ほかの世界が小さく物足りなく見えてしまうということです。大きな自然が素晴らしく、小さな自然はそうではないとは決して考えませんが、遠い昔の旅人のその言葉を思い出しました。

結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味を持つのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。頬をなでる極北の風の感触、夏のツンドラの甘い匂い、白夜の淡い光、見過ごしそうな小さなワスレナグサのたたずまい・・・ふと立ち止まり、少し気持ちを込めて、五感の記憶の中にそんな風景を残してゆきたい。何も生み出すことのない、ただ流れてゆく時間を、大切にしたい。あわただしい、人間の日々の営みと並行して、もう一つの時間が流れていることを、いつも心のどこかで感じていたい。

たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕日を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?….その人はこういったんだ。自分が変わってゆくことだって。その夕日を見て、感動して自分が変わってゆくことだと思うって。

子どものころに見た風景がずっと心の中に残ることがある。いつか大人になり、様々な人生の岐路に立ったとき、人の言葉ではなく、いつか見た風景に励まされたり勇気を与えられたりすることがきっとあるような気がする。



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