今年の6月末で6年間働いた監査法人を退職予定だ。
退職と行っても監査法人に際立ったネガティブな印象はなく、単純に「もっと色んな経験をしたい。色んなものを観たい。」という思いが強くなっての転職である。
ずっと監査業務に従事してきたが、自分が監査にジャストフィットしている感覚はあまりなかった。なので退職するにあたっても、法人自体は好きといえ、それほど感傷的にならないだろうなとタカを括っていた。
しかし、退職まで残り僅かとなった今、予定よりずっと感傷に陥っている。
あれほどはまってはないと思っていた仕事に対して、何かとても慈しみ深い感情が湧いている。
「このくだらん取引テストもあとわずかか」
「この日程調整もこれで最後か」
「特に重大な瑕疵ではないけど、会社の人とおしゃべりしたいし呼んじゃうか」
そんな気持ちになっている。まったく去年の自分からしたら考えられない事態だ。
終わりが近づくと感慨深くなる心の動きは、今まで「学校」という世界で経験していた。
それに近いと思う。しかし、考えてみると一つ異なる要素がある。
周りの人が残るかどうか、だ。
学校の場合は近い人は同時に卒業していく。
しかし退職の場合、基本は「自分一人だけ」で”卒業”していく。
となると、アナロジーとしてより適切なのは学校の卒業ではなく、「死」なのかもしれない。
自分以外は現世に残り、自分だけが違う世界へと旅立つ。
監査が閑散期である3月下旬、在宅で昼寝しているときにそんなことを考えた。
開けた窓から風が入ってくる。連想は広がる。
高校の英語の授業で扱ったスティーブ・ジョブズのスピーチを思い出した。
“If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?”
(もしも今日が人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることをやりたいと思うだろうか)
ジョブズのスピーチの中の”life”は”work”にも置き換えられる。
“If today were the last day of my work, would I want to do what I am about to do today?”
(もしも今日で退職するとしたら、今日やろうとしていることをやりたいと思うだろうか)
退職が見えてきて、やっと、こんな感情になっているのかもしれない。
同時に、退職が見えてきていないときは、ここまでの思いで仕事に取り組んでなかったなと気付く。習った内容を活かすのはとても難しい。
ジョブズは更に言う。
“almost everything── all external expectations, all pride, all fear of embarrassment or failure──these things just fall away in the face of death, leaving only what is truly important.”
(ほとんどすべてのこと──いろいろな外部からの期待や 、自分のあらゆるプライド 、混乱や失敗に対するさまざまな恐れ──こういったものは、死に直面すると消えてなくなり、真に重要なことだけが残される。)
退職が決まっているか、いないかは些細な問題だ。
意識の持ちようによって、だれでも、いつでも同一である。
様々な制約があるが、その中でも常にtruly importantなことに取り組む意識を心に刻みつつ、いったん最後となる4月からの期末監査を頑張りたい。
P.S.
本記事、下書きは3月にしていたのだが、さぼりにさぼって投稿が5月末となってしまった。2か月前の自分、とても良いことを言っているなと、truly boringなクソ業務をしながら感心している。早く退職したい。